神通。

hirahira01152012-12-07


「心置自然」を実践すると何が期待できるのか。
神に通じる。
神や仏に近づく。
神とは「自然」。
太陽はその偶像。
  
母親の胎内から飛び出したときは、人間社会を知らなかった。
人間社会で成長し、様々な影響を受けた。
楽しいこともあったし、楽しくなかったこともあった。
楽しくないことよりも、楽しいことを求めて生きてきた。
そのうち、快楽主義の限界を感じた。
最後は、何処に落ち着くのか。
途中経過よりも、最後を大事にしたいと思った。
  
落ち着く先を考えて、そのときどきの生き方を考えるようになった。
若い時は、「モノ」に憧れた。
歳をとって、「こころ」だと思った。
心の安定、心の平和。
この身のなかに潜んでいる怒りや憎しみ、不安や恐怖の感情は何処から来るのか。
試行錯誤してきた。
  
先人たちの考え方や生き方が参考になった。
「離欲」だと思った。
欲を追求することが万人共通の社会。
「欲を放棄する」ことは難しい。
放棄はできなくても、可能な限り離れようと思った。
山奥の一人暮らしは、想いを実践することを助けてくれた。
それは、肉体の変化にあらわれた。
肉体の変化は目に見え、確認できる。
次に、こころ、精神の変化にあらわれた。
目に見えないところの変化。
不思議な現象が次々に起こった。
それが「神に通じる」ということなのだ、と思った。
日記にはそのことを書いてきた。
  
こころの変化、あり方はわからないところがある。
ヨーガの先達が「唯物論者はそこそこまでしか行かない」と書いていた。
ボクは、唯物論者であることを卒業したけれども、考え方は「唯物論的」であり、身体の隅々まで浸透している。
「そこそこ」を承知で先に進んでみたいと思った。
  
妻は、「そんな窮屈な生活」と揶揄する。
しかし、ボクはそれが楽しいのだ。
不純かも知れないけれども、「そこそこ」を承知で次のステージに登りたいと思う。
それが、現在の心境。
  
この日記はもう少し続けるつもりだった。
しかし、枝刈りを書き、心置自然を書いた。
文章ではいくら書いても際限がない。
書きたいと思っているあいだは、「心置自然」から離れる。
このあたりが潮時だと思った。
  
これまで、世迷いごとにつきあっていただいた方々には心からお礼を申し上げます。
この日記に惑わされないで、自分の人生を歩んでください。

ありがとうございました。
  
今日の一枚。
特に意味はありません。
妻は、「何を食べているのか」「食べるものはあるのか」、と常に聞いてくる。
現存する食材で何ができるのか。
付箋に書いて、パソコンの上に貼った。
食堂のメニューのようになった。
写真では、右側が切れている。
書き出せばもっとある。
  
コメはあるけれども、今回はまだ炊くところまで行かない。
卵のパックは開いたけれども、使ったのは一つだけだ。
野菜が切れそうになると、誰かが届けてくれる。
まだ、当分大丈夫だ。
食を制限しているわけではない。
動物性タンパク質も少ないけれども摂取している。
身体とこころに任せている。
  
これも、心置自然。

 自然を置く。

hirahira01152012-12-06


こころの置所を何に求めるのか。
それで、その人物の人となりは定まる。
それが、「心置」の意味だと前日に書いた。
  
自分は「何を」こころを置いているのか。
価値観といってもよい。
一番大事にしているものは何か。
一杯あって簡単に決まらないという人もあるかも知れない。
そんな人は、いざという時に迷う。
なぜなら、優先順位をきめるのは自己であっても、自己は「置いたモノ」に支配されるからだ。
自分を支配するもの、自分を縛り付けるもの、それは何か。
  
ボクは「自然」を置く。
自然とは何か。
以前に「人工でないもののすべて」と書いたことがある。
人の手にかからないもの、人智の及ばないもの、人が受ける恩恵の源。
姿形は見えない、見えないけれども作用していることは誰にでもわかる。
神と呼ぶ人もある。
ボクは神でもよいと思う。
神にしないのは、まやかしの神が蔓延しているからだ。
  
ボクの神は何か。
偶像がある。
偶像とは「神が宿っているもの」。
それは、太陽。
太陽は宇宙空間に漂う星のひとつ。
すべての源とは言えないけれども、地球上の生き物は太陽の恩恵を受けて生きている。
太陽が宇宙の構成部分の一つであったにしても、地球上の生き物の生殺与奪権を握っている。
専門的なことはわからないけれども、常識的な理解だと思う。
神のようなものとして「太陽」を置く。
  
ここまで述べてきたのは、「考え方」ではない。
これからの生活の指針を何処に置くのかということで述べている。
それは、人間社会の葛藤から離れ、山奥で暮らすことによって得た知識や知恵から生まれた。
新しい人生を迎えるにあたって、色々と書いてきたことの根拠を可能な限り明らかにしようと思っている。
そして、自分自身のこれからの生活のイメージをはっきりさせるためにも。
  
太陽に崇敬の念を払い、その恩恵にしたがって生きて行く。
太陽の日差しが当たっているときは、少々寒かってもデッキに出て食事をし、読書をする。
何もしない時でも、日向ぼっこをする。
太陽が沈むと睡眠と休養、瞑想や坐禅、沈黙し心の安定をはかる。
最近は、夕食を3、4時ごろに済ませ、暗くなる前に玄関灯をつけ、風呂にはいる。
朝起きるまで、布団のなかで12時間ぐらい過ごす。
昼間と夜間の時間は同じぐらいだ。
昼間の時間は短いが夜は長い。
眠れないという心配はしたことがない。
そんな生活になってきたのだ。
  
欲望を実現するために24時間働き続けていた過去の人生とは何だったのか。
太陽の恩恵に順応することが、エネルギーの節約にもなり、地球環境にとっても大切だ。
人の健康維持にも貢献する。
  
心置自然というのは考え方ではなく、実践の目標である。
そして、多くの人が憂う地球環境、「持続可能な未来」を実現するボクの処方箋だ。
  
政治的、経済的、社会的、文化的、その他諸側面から、現在の社会秩序を破壊するものだという批判も出ると思う。
批判が出るよりも、誰も相手にしないだろう。
ボクはそんな人達に言いたい。
人間のつくりあげた現在のシステム全体が崩壊寸前の状態にあるのだということを。
多くの人が、そのことを知りながら問題の核心に触れようとしない。
なぜか。
  
こころの置きどころが、自分の利益、自分の欲望、その実現にあるからだ。
そしてそれは、指導的な立場にある人たちを支えている大衆のこころの置所でもあるからだ。
  
ボクは現役の時代に、こうした流れを変えるために力を注いだ。
流れを変えることはできないと結論した。
それは、人間の本性だからだ。
だから、他人を変えようとは思わない。
自分が変わることにした。
  
心置自然、で。
  
今日の一枚は、焼き芋。
お向かいからいただいた大きな芋。
これで、4日間の食をまかなった。
山に行くときは非常食に携行した。
まだ、一食残っている。
  
神、太陽の恵み。

 心置自然。

hirahira01152012-12-05


きょうの一枚は、前日に説明した。
ボクのそばで背を向けて安心して焼き芋にしがみついている。
冬のさなかに、ウッドデッキで日向ぼっこをしている変人に興味が湧いたのかもしれない。
とにかく、次から次へと入れ替わって虫が訪問してくれた。
会話は成り立たないけれども、ボクは声をかけ続けた。
「異変」の原因や理由はわからないけれども、これは事実だ。
きっと、ムシ達のこころの置所に共通しているものがあったのだろう。
  
きょうは、「心置自然」。
この4文字熟語はボクがつくった。
ボクの真言
ネットで検索しても、ひらひら日記にしか出てこない。
この日記の最後のキーワード。
  
人は一人ずつ、全部違う。
顔や姿、外見は似ているようでも、よく見ると違う。
身体は見える。
人には見える部分と見えない部分がある。
精神、心、魂などと呼ぶ。
そのものが見えない以上に、その動きはもっとわからない。
「人間とは何か」という場合、呼び方は色々あっても、見える部分と見えない部分にわかれる。
見えるモノと、見えないモノとの境界ははっきりしていないけれども、考え方を整理するために、分けて考えているだけである。
身体と、こころに。
  
身体は目で見てわかる、様々な検査機器を通れば正常かどうかもわかる。
心は見えない。
何を考えているのか、何を目標にしているのか。
「あの人は、どんな人」という場合、心の在り処をさす。
  
人間とは何かという場合、その人物の「心の置所」が何処にあるのかで違いがでると思う。
人としての「心の置所」。
何を目標に生きるのかというような大きなことから、昼飯を何にするかというようなことまで。
これといった定まったものはない。
常に揺れる。
人に会い、モノに触れるたびに気は変わる。
気の刺激を受けて、心も変わる。
  
いま、選挙が行われている。
どの党、どの候補者が勝ち、負けるのか。
選挙に不正がないとすれば、誰にもわからない。
有権者の心の置きどころが、投票によって集計されるまでは。
候補者は、有権者のこころを惹きつけようとあれこれの公約を並べる。
有権者のこころも揺れる。
しかし、限られた期間に、限られた選択肢のなかから選ばなければならない。
とりあえず、勝敗は決まるけれども戦いはそこから始まる。
有権者の心には新しい欲望が置き換えられる。
  
心というのは欲望の置所なのである。
心の置所には、その人物の欲望が詰まっている。
そこに何を置くのか。
欲望は限りなく広がる。
死ぬまで広がる。
それが、人間の宿命だとボクは思っていた。
  
「心置自然」という言葉は仏教の言葉ではない。
しかし、仏教の影響を受けている。
仏教をはじめキリスト教など外国の宗教にも関心はある。
関心はあり、影響を受けているけれども「信仰」するまでには至らない。
科学主義的理解と、信じることからはじまる宗教的教義とは混じりあわない。
「心置自然」はその妥協なのだ。
  
「自然」の代わりに「神」や「仏」を置く人もある。
俗人は、「立身出世」や「富貴」を置く。
ボクは長い間「科学」を置いてきた。
人それぞれ、それでよいと思う。
  
「心置自然」で終わりではない。
これから始まるのだ。
そこから、何が始まるのか、自分でもわからない。
  
おそらく、誰にもわからない。
いま、そんな生活に変えようとしている。
  
ムシ達の来訪は新しい絆の誕生かも知れない。


 

 幸福な死。

hirahira01152012-12-04


死という言葉を嫌う人が多い。
誰もが必ず迎えることなのに。
どうせ、通過しなければならない関門なら、忌み嫌うのではなく喜んで向き合うことはできないのか。
  
赤ちゃんの誕生は祝福される。
人が誠実に生きて、死を迎えた時にもボクは「ありがとう、サヨウナラ」の言葉を贈りたいし、贈ってもらいたいと思っている。
再び元気な姿で相対することができないのは寂しいかもしれない。
力をかして貰いたいと思っても、それはかなわない。
しかし、それは受け入れなければならない。
  
きのうは、「自殺はするな」と書いた。
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という有名なセリフがある。
自殺は、一般の「死」と区別されなければならない、とボクは思う。
人間は色んな死に方をする。
病気、事故、災害、事件、原因はいろいろだ。
しかし、どんな死に方をしても、みずから死を選び、実行することとは違う。
死ぬには死ぬ原因がある。
納得できてもできなくても、原因に遡ることができる。
死んだ人はもとに戻らない。
最後まで、「生きたい」と行動したことで、自殺をした人とは区別しなければならない。
みずからの「選択」、みずからの意志によるものだからだ。
人として最後の、究極の「選択」なのだ。
  
ボクが言いたいのは、究極の選択に至るまでの生き方、それまでの「選択」に問題があるのではないかということである。
実は、ボクも「自殺」という問題を考えたことがあった。
小学校の1,2年生のころである。
自殺がしたいということではない。
矛盾に満ちた世の中の事象に触れるたびに、生きてくことが嫌になった。
「生きることに、どんな意味があるのか」という疑問をもった。
誰にも言わなかったし、聞くこともしなかった。
深刻に考えたわけでもなかった。
それでも、物心がつくということは、こういう事だと思った。
  
現役を終えるまで、ボクも人並みの生き方をしてきた。
つまり、夢や希望、欲望の実現のために精一杯の活動をした。
「生涯現役」ということを疑いもしなかった。
なぜ、生き方を変えたかというのは何回も書いたので繰り返さない。
  
吉野に一人暮らしを始めて、驚いたのは体調が好転したことである。
風邪もひかないし、病気にならない、心臓疾患も治療なしに一年で回復した。
その他にも驚くべき変化が身体に起こった。
体調の好転は、運動や食事などの健康法ではなく、こころの持ち方だった。
こころの持ち方一つでこんなにも世界が変わる。
そのことを実感した。
  
地獄極楽で子供を脅したり、善因善果・悪因悪果で道徳を強要しなくても、理性的で科学的なものの見方を捨てられない自分でもここまでくることができた。
若い時には思いっきり欲望を実現するためにエネルギーを使えばよい。
中途半端ではなく、「思いっきり」「精一杯」が大事だ。
成功か失敗か、必ず結果が出る。
成功しても失敗しても、次の選択が大事だ。
  
「幸福な死」をいかに迎えるか。
その楽しみが待っているからだ。
  
ボクは「心置自然」という。
こころの持ち方の極意である。
  
今日の一枚は、ハチ。
きのうの朝食の時にやって来て、頭に止まったり手に止まったりしていた。
「あっちへ行け」「ちょっと待って」などと話しかけながら相手をしていた。
そのうち、パンに塗っていたゆず茶の入れ物のなかに入るので、柚子の皮をデッキの上においてそちらに移ってもらった。
見分けはつかないけれども、いつも同じ種類のハチが現れる。
数日前に、スープのなかで溺れかけていたのを助けてやった。
それ以来、近親感を覚えたのかも知れない。
  
ハチの次は蛾が肩に止まって動ことしない。
焼き芋の皮を与えて、これもデッキに移ってもらった。(あすの一枚)
その次はテントウムシが手の甲にまとわりつき、ザトウムシは頭から肩、背中を徘徊し離れようとしない。
何回も書いているように、これらの現象は偶然ではなく、彼らの「観察」「思考」「行動選択」の結果だと思う。
虫に「心」があるかどうかは知らないけれども。

 終章。

hirahira01152012-12-03


あまり、構えないで書こうと思う。
なぜ、書くのをやめるのか。
ボクにとっては、「書くこと」が欲望の実現であるからだ。
書くことによって、自分の思いの大半が達せられる。
そんな自分にサヨウナラをすること。
  
日記を書きだしたのは2006年10月28日。
ちょうど6年間ほどになる。
吉野で一人暮らす日数も増え、日記の目的や書くことも変わってきた。
文章の量も毎年増えてきた。
最近は、書くことが目的になっているようなところもある。
それが、坐禅の不調、体調の腐心につながっている。
枝刈りでいろいろなモノを捨てる、離れるということを書いてきたけれども、いちばん肝心なのは「書くこと」だと思う。
いま、ボクから日記をとると何が残るのか。
何をして、何を考えて、その日を過ごすのか。
未体験ゾーンに入る。
  
一昨年の末にも、日記を書くことをやめると決意して「梅庵日記」を閉じた。
そして、「ひらひら日記」と「梅庵落書帳」を起こした。
311が起こった。
ボクの「311」という意味は、地震津波の被害のことではなく「フクシマ」である。
日本が終わった、人類生存の危機の始まりだと思った。
フクシマは原発事故のことではあるけれども、フクシマを引き起こした原因はもっと深く広い。
ボクのフラフラ病の原因がなにかを特定できないように、フクシマで起こらなくても同じような事象が人間社会を見舞っている。
これは、フクシマ以前からのボクの確信である。
  
ひらひら日記の2012年版は趣を変えた。
絶望の時代に「光明」を見つけようと思った。
いまも、そのつもりで書いている。
ボクと、ボクの愛する人たちのために。
  
ボクは、人生が楽しい、何の苦労もない、幸せだと思っている人を対象にしてはいない。
そうではない人、人生に行き詰まって究極の選択に迫られた時に、外に救いの道がないと思った時に、この日記を読んでもらいたいと思っている。
自分で生命を絶ってはならない。
それは、神や仏の意志に反するからではない。
自死をすれば、あとに残った人たちに迷惑をかけるという他にたいする配慮からでもない。
自分の人生が「敗北」であったことを認めることになるからでもない。
  
生きるということは、どんな状況、どんな困難に遭遇しても、楽しいことなのだ。
人は、生きるためにプログラムされている。
プログラムを破壊し修正するのは、プログラムの読み方、運用に問題があるのだ。
つまり、自己を苦しめ、追いつめているのは、他ではなく自己の中にあるのだ。
  
他と交わって、他を変更しようとするから、思うようにならない。
自己を見つめ、自己を変革することによって「苦しみ」も「楽しみ」に変わる。
身体の「痛み」は誰でも辛い。
辛い痛みも、「心地よい痛み」に変えることができる。
痛い、いた気持ち良いの境界は自己の心の作用なのだ。
  
この間に書いてきた「枝刈り」はその手法である。
目的は「離欲」。
ボクもこれから挑もうとしている。
見本はない。
新しい世界に入る。
  
いつから始めるかを決めた。
自治会の役員交代や、孫との約束を果たす関係で少し伸びることになりそう。
遅くとも、3月までには新生活に入るつもりだ。
  
日記もその時点で終わる。
今度こそ、終わる。
  
今日の一枚は、朝日にとけて気化する霜。
真っ白な霜が、強烈な日光を浴びてガス化し、猛烈な勢いで立ち昇っていく。
自然現象は強烈だ。
人間が何もしなくても、地球は生きている。
霜は再び同じ霜には戻らない。
  
吉野では、心置自然のいとなみを今朝も見せてくれた。

 名残。

hirahira01152012-12-02


最後の登山、これが悪戦苦闘の名残り。
きょうの一枚。
外見は悪いけれども、靴の中は最後までカラカラだった。
足はガタガタ、身体もフラフラだったけれども、ストックのお陰で下山できた。
登山靴と手と上体の力で降りてきたようなものだった。
  
洗濯物を干して、登山道具の片付けをした。
昼前にイズさんは奈良に帰った。
昨夜は、彼が持参した水炊きを食べながら「最後の登山」の検証をした。
「山をなめたらアカン」「解っているつもりが油断を招く」「人里の近くで遭難する」「登山は単独行にかぎる」などと語りあった。
彼は、GPSとともにコンパスを携帯している。
コンパスのお陰で、ボクが迷走した頂上付近で同じように迷いながらも被害が少なかった。
機械は便利だけれども、信じすぎると人を狂わせる。
時には命も奪う。
これが共通の教訓だった。
  
他にも多くの「気づき」があった。
井光集落の入り口に「いひかの里」という施設がある。
アマゴの養殖、アマゴ釣り、バンガロー、バーベキュー、遊歩道などの設備がある。
漢字で「井氷鹿の里」と書く。
歴史的に名のあるところらしい。
車はそこの駐車場に止めておいた。
歩き出したまもなく、携帯電話が鳴った。
弁慶だった。
用件は、「明日の同窓会に出席を」という事だった。
出席できないという返事をして、2,3話をした。
ボクは、「皆には、死にかけている」と伝言を頼んだ。
彼に、「貧血と違うか」と指摘され、忘れていた持病を思い出した。
  
以前に、フラフラの原因について想像をあれこれ書いた。
その時には、「貧血症」があることを忘れていた。
フラフラすることや失神して転倒することなどは貧血が原因しているのかも知れない。
たとえ貧血が原因であったしても、ボクは受け入れる。
何もかも受け入れるという決意を変えるつもりはない。
貧血では死なない。
貧血と何かが重なった時に命を失うかもしれない。
そうならないように心がける。
「最後の登山」というのも、その一つだ。
  
いま一つの気づきは、「無心」になること、なれない原因についてだった。
いひかの里から林道を歩き、身体が温もってきたあたりに滝があった。
ボクは強い風と雪、気温の低下で、鼻水が流れていた。
はじめは手袋で拭いていたが、そのうち面倒くさくなって垂れ流し状態だった。
垂れ流しにすることによって、身体がゆるみ、疲れも軽減する。
そのことは以前から経験して知っている。
ところが、滝を見るためにやってきた車に気づいた瞬間、鼻水の垂れ流しを手で拭いた。
拭いた瞬間、身体の緩みがもとに戻ってしまった。
人から人間に戻ってしまったのである。
  
離欲、無心、瞑想など止観の障害になっているものが何か、身体でわかったような気がした。
自分をよく見せたい、自分のテリトリーを広げたい、欲しいものを手に入れたい。
それは、「他」との関係で生じることを。
枝刈りで書いてきたことの意味だ。
最後の登山、そのお陰で、新しい気づきを得た。
  
坐ってモノを考えるだけでなく、身体を動かすことによって得るものも多い。
そのために、何をするか。
それが、次のステージ。