心置自然。

hirahira01152012-12-05


きょうの一枚は、前日に説明した。
ボクのそばで背を向けて安心して焼き芋にしがみついている。
冬のさなかに、ウッドデッキで日向ぼっこをしている変人に興味が湧いたのかもしれない。
とにかく、次から次へと入れ替わって虫が訪問してくれた。
会話は成り立たないけれども、ボクは声をかけ続けた。
「異変」の原因や理由はわからないけれども、これは事実だ。
きっと、ムシ達のこころの置所に共通しているものがあったのだろう。
  
きょうは、「心置自然」。
この4文字熟語はボクがつくった。
ボクの真言
ネットで検索しても、ひらひら日記にしか出てこない。
この日記の最後のキーワード。
  
人は一人ずつ、全部違う。
顔や姿、外見は似ているようでも、よく見ると違う。
身体は見える。
人には見える部分と見えない部分がある。
精神、心、魂などと呼ぶ。
そのものが見えない以上に、その動きはもっとわからない。
「人間とは何か」という場合、呼び方は色々あっても、見える部分と見えない部分にわかれる。
見えるモノと、見えないモノとの境界ははっきりしていないけれども、考え方を整理するために、分けて考えているだけである。
身体と、こころに。
  
身体は目で見てわかる、様々な検査機器を通れば正常かどうかもわかる。
心は見えない。
何を考えているのか、何を目標にしているのか。
「あの人は、どんな人」という場合、心の在り処をさす。
  
人間とは何かという場合、その人物の「心の置所」が何処にあるのかで違いがでると思う。
人としての「心の置所」。
何を目標に生きるのかというような大きなことから、昼飯を何にするかというようなことまで。
これといった定まったものはない。
常に揺れる。
人に会い、モノに触れるたびに気は変わる。
気の刺激を受けて、心も変わる。
  
いま、選挙が行われている。
どの党、どの候補者が勝ち、負けるのか。
選挙に不正がないとすれば、誰にもわからない。
有権者の心の置きどころが、投票によって集計されるまでは。
候補者は、有権者のこころを惹きつけようとあれこれの公約を並べる。
有権者のこころも揺れる。
しかし、限られた期間に、限られた選択肢のなかから選ばなければならない。
とりあえず、勝敗は決まるけれども戦いはそこから始まる。
有権者の心には新しい欲望が置き換えられる。
  
心というのは欲望の置所なのである。
心の置所には、その人物の欲望が詰まっている。
そこに何を置くのか。
欲望は限りなく広がる。
死ぬまで広がる。
それが、人間の宿命だとボクは思っていた。
  
「心置自然」という言葉は仏教の言葉ではない。
しかし、仏教の影響を受けている。
仏教をはじめキリスト教など外国の宗教にも関心はある。
関心はあり、影響を受けているけれども「信仰」するまでには至らない。
科学主義的理解と、信じることからはじまる宗教的教義とは混じりあわない。
「心置自然」はその妥協なのだ。
  
「自然」の代わりに「神」や「仏」を置く人もある。
俗人は、「立身出世」や「富貴」を置く。
ボクは長い間「科学」を置いてきた。
人それぞれ、それでよいと思う。
  
「心置自然」で終わりではない。
これから始まるのだ。
そこから、何が始まるのか、自分でもわからない。
  
おそらく、誰にもわからない。
いま、そんな生活に変えようとしている。
  
ムシ達の来訪は新しい絆の誕生かも知れない。