自然を置く。

hirahira01152012-12-06


こころの置所を何に求めるのか。
それで、その人物の人となりは定まる。
それが、「心置」の意味だと前日に書いた。
  
自分は「何を」こころを置いているのか。
価値観といってもよい。
一番大事にしているものは何か。
一杯あって簡単に決まらないという人もあるかも知れない。
そんな人は、いざという時に迷う。
なぜなら、優先順位をきめるのは自己であっても、自己は「置いたモノ」に支配されるからだ。
自分を支配するもの、自分を縛り付けるもの、それは何か。
  
ボクは「自然」を置く。
自然とは何か。
以前に「人工でないもののすべて」と書いたことがある。
人の手にかからないもの、人智の及ばないもの、人が受ける恩恵の源。
姿形は見えない、見えないけれども作用していることは誰にでもわかる。
神と呼ぶ人もある。
ボクは神でもよいと思う。
神にしないのは、まやかしの神が蔓延しているからだ。
  
ボクの神は何か。
偶像がある。
偶像とは「神が宿っているもの」。
それは、太陽。
太陽は宇宙空間に漂う星のひとつ。
すべての源とは言えないけれども、地球上の生き物は太陽の恩恵を受けて生きている。
太陽が宇宙の構成部分の一つであったにしても、地球上の生き物の生殺与奪権を握っている。
専門的なことはわからないけれども、常識的な理解だと思う。
神のようなものとして「太陽」を置く。
  
ここまで述べてきたのは、「考え方」ではない。
これからの生活の指針を何処に置くのかということで述べている。
それは、人間社会の葛藤から離れ、山奥で暮らすことによって得た知識や知恵から生まれた。
新しい人生を迎えるにあたって、色々と書いてきたことの根拠を可能な限り明らかにしようと思っている。
そして、自分自身のこれからの生活のイメージをはっきりさせるためにも。
  
太陽に崇敬の念を払い、その恩恵にしたがって生きて行く。
太陽の日差しが当たっているときは、少々寒かってもデッキに出て食事をし、読書をする。
何もしない時でも、日向ぼっこをする。
太陽が沈むと睡眠と休養、瞑想や坐禅、沈黙し心の安定をはかる。
最近は、夕食を3、4時ごろに済ませ、暗くなる前に玄関灯をつけ、風呂にはいる。
朝起きるまで、布団のなかで12時間ぐらい過ごす。
昼間と夜間の時間は同じぐらいだ。
昼間の時間は短いが夜は長い。
眠れないという心配はしたことがない。
そんな生活になってきたのだ。
  
欲望を実現するために24時間働き続けていた過去の人生とは何だったのか。
太陽の恩恵に順応することが、エネルギーの節約にもなり、地球環境にとっても大切だ。
人の健康維持にも貢献する。
  
心置自然というのは考え方ではなく、実践の目標である。
そして、多くの人が憂う地球環境、「持続可能な未来」を実現するボクの処方箋だ。
  
政治的、経済的、社会的、文化的、その他諸側面から、現在の社会秩序を破壊するものだという批判も出ると思う。
批判が出るよりも、誰も相手にしないだろう。
ボクはそんな人達に言いたい。
人間のつくりあげた現在のシステム全体が崩壊寸前の状態にあるのだということを。
多くの人が、そのことを知りながら問題の核心に触れようとしない。
なぜか。
  
こころの置きどころが、自分の利益、自分の欲望、その実現にあるからだ。
そしてそれは、指導的な立場にある人たちを支えている大衆のこころの置所でもあるからだ。
  
ボクは現役の時代に、こうした流れを変えるために力を注いだ。
流れを変えることはできないと結論した。
それは、人間の本性だからだ。
だから、他人を変えようとは思わない。
自分が変わることにした。
  
心置自然、で。
  
今日の一枚は、焼き芋。
お向かいからいただいた大きな芋。
これで、4日間の食をまかなった。
山に行くときは非常食に携行した。
まだ、一食残っている。
  
神、太陽の恵み。