幸福な死。

hirahira01152012-12-04


死という言葉を嫌う人が多い。
誰もが必ず迎えることなのに。
どうせ、通過しなければならない関門なら、忌み嫌うのではなく喜んで向き合うことはできないのか。
  
赤ちゃんの誕生は祝福される。
人が誠実に生きて、死を迎えた時にもボクは「ありがとう、サヨウナラ」の言葉を贈りたいし、贈ってもらいたいと思っている。
再び元気な姿で相対することができないのは寂しいかもしれない。
力をかして貰いたいと思っても、それはかなわない。
しかし、それは受け入れなければならない。
  
きのうは、「自殺はするな」と書いた。
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という有名なセリフがある。
自殺は、一般の「死」と区別されなければならない、とボクは思う。
人間は色んな死に方をする。
病気、事故、災害、事件、原因はいろいろだ。
しかし、どんな死に方をしても、みずから死を選び、実行することとは違う。
死ぬには死ぬ原因がある。
納得できてもできなくても、原因に遡ることができる。
死んだ人はもとに戻らない。
最後まで、「生きたい」と行動したことで、自殺をした人とは区別しなければならない。
みずからの「選択」、みずからの意志によるものだからだ。
人として最後の、究極の「選択」なのだ。
  
ボクが言いたいのは、究極の選択に至るまでの生き方、それまでの「選択」に問題があるのではないかということである。
実は、ボクも「自殺」という問題を考えたことがあった。
小学校の1,2年生のころである。
自殺がしたいということではない。
矛盾に満ちた世の中の事象に触れるたびに、生きてくことが嫌になった。
「生きることに、どんな意味があるのか」という疑問をもった。
誰にも言わなかったし、聞くこともしなかった。
深刻に考えたわけでもなかった。
それでも、物心がつくということは、こういう事だと思った。
  
現役を終えるまで、ボクも人並みの生き方をしてきた。
つまり、夢や希望、欲望の実現のために精一杯の活動をした。
「生涯現役」ということを疑いもしなかった。
なぜ、生き方を変えたかというのは何回も書いたので繰り返さない。
  
吉野に一人暮らしを始めて、驚いたのは体調が好転したことである。
風邪もひかないし、病気にならない、心臓疾患も治療なしに一年で回復した。
その他にも驚くべき変化が身体に起こった。
体調の好転は、運動や食事などの健康法ではなく、こころの持ち方だった。
こころの持ち方一つでこんなにも世界が変わる。
そのことを実感した。
  
地獄極楽で子供を脅したり、善因善果・悪因悪果で道徳を強要しなくても、理性的で科学的なものの見方を捨てられない自分でもここまでくることができた。
若い時には思いっきり欲望を実現するためにエネルギーを使えばよい。
中途半端ではなく、「思いっきり」「精一杯」が大事だ。
成功か失敗か、必ず結果が出る。
成功しても失敗しても、次の選択が大事だ。
  
「幸福な死」をいかに迎えるか。
その楽しみが待っているからだ。
  
ボクは「心置自然」という。
こころの持ち方の極意である。
  
今日の一枚は、ハチ。
きのうの朝食の時にやって来て、頭に止まったり手に止まったりしていた。
「あっちへ行け」「ちょっと待って」などと話しかけながら相手をしていた。
そのうち、パンに塗っていたゆず茶の入れ物のなかに入るので、柚子の皮をデッキの上においてそちらに移ってもらった。
見分けはつかないけれども、いつも同じ種類のハチが現れる。
数日前に、スープのなかで溺れかけていたのを助けてやった。
それ以来、近親感を覚えたのかも知れない。
  
ハチの次は蛾が肩に止まって動ことしない。
焼き芋の皮を与えて、これもデッキに移ってもらった。(あすの一枚)
その次はテントウムシが手の甲にまとわりつき、ザトウムシは頭から肩、背中を徘徊し離れようとしない。
何回も書いているように、これらの現象は偶然ではなく、彼らの「観察」「思考」「行動選択」の結果だと思う。
虫に「心」があるかどうかは知らないけれども。