「絶望の時代」というのは、ない。

「絶望」というのは、人の意識。
人の意識は一人ひとり違う。
「絶望の時代」という言葉は、その時代に絶望している人が多いということ。
「病気というのは、病気にかかっていると思っている人がいるだけのこと」。
病気というものはない、その人の属性を「病気」「異常」と思っているだけのこと。
  
問題は、「絶望」を感じ意識し、はじめてそこから抜け出す知恵が出てくることだ。
「絶望」「行き詰り」「ドン底」「最悪」その他わが身の現状について否定的な現象を感じない人は抜け出す意欲も知恵も生まれてこない。
現状維持に汲々とする。
ぬるま湯に浸かり続ける。
絶望を感じることは救いなのだ。
  
「希望にあふれる時代」というのは、絶望から抜け出すことは難しい。
少数派ゆえに、変人、奇人扱いを覚悟しなければならない。
絶望を感じている人にとって、「絶望の時代」は歓迎すべきことだ。
なぜなら、多数派になったからだ。
それこそ、恥も外聞もなく絶望からの脱出をはかればよい。
  
311の翌日の日記に、ある学者の発言を紹介した。
関東大震災の時は、動けない人が動いた」、と。
   http://d.hatena.ne.jp/hirahira0115+raku/20110312
絶望は人に力を与えてくれる。
何かにすがろうとする根性を正してくれる。
現実の厳しさに打ちひしがれている人は、他力を期待する。
自死、自殺の希望者以外は。
どちらを選ぶかはその人の自由だ。
  
「絶望の時代」というのは「ない」、と書いた。
しかし、人間の歴史はすべて「絶望の連続」だったかも知れない。
絶望の渦のなかで時に光明を感じて生きてきたのかも知れない。
仏教には「末法」という言葉がある。
ブッダは「こは苦なり」と言った。
キリスト教は人間の「罪」を説く。
人間社会の不条理に立ち向かい、生きていく知恵かも知れない。
  
テレビでは117の記念番組が放映されている。
311震災被害の番組でも共通していることがある。
大人は湿っぽい。
子供は明るい。
同じ状況にあっても、反応は違う。
子供は幼稚で、状況の認識する力がない、ということではない、と思う。
その違いはどこからくるのか。
ボクの意見を書いてみる。
  
きょうは、この辺りで。