都会から田舎へ。

予定よりも早く吉野に帰ってきた。
奈良と吉野、半々生活の比重は変化している。
ボクが奈良に行くのは、家族に会うという以外に目的はない。
読書をしていたときは、図書館に通っていた。
本の貸出は2週間で、借りた本に予約が入らなければ2週間延長できる。
予約が入っていても、図書館にお願いして「遅延」させてもらっていた。
県立図書館、市図書館ともに。
だから、余裕をみて3週間ほどの滞在で吉野と奈良を往復した。
  
奈良に帰ると、奈良の生活が待っている。
図書館の貸出が済めばすぐに吉野へというわけにはいかなかった。
囲碁、外食、ショッピング、家族との交流、行事も待っていた。
  
最近、感じていることがある。
「なぜ、吉野なのか」と人に聞かれ、自問する。
これまでは、吉野の長所を色々と考えていた。
それが、変わってきた。
「都会は住みにくい」、と。
  
ショッピングに行く。
家に帰ると疲れているのがわかる。
埃や人混みのせいだと思っていた。
今年の夏は、疲れの原因がクーラーだと実感した。
節電政策の影響かも知れないが、特に膝から下が冷える。
ショッピングだけでなく、あらゆるところで人工的な冷気に襲われる。
車の中でもクーラーをつけるかつけないかで同乗者と意見が食い違う。
ボクの方が譲る。
妻には、場合によってボクの意見を押し付ける。
クーラーが都会生活の必需品になっている人たちはボクと違った免疫を持っているのだと思う。
自宅に帰っても、クーラーのない自室に引っ込むことになる。
早く、吉野に帰りたいと思う。
  
吉野を好む理由はクーラーだけではないように思う。
クーラーに代表される都会の生活、人間の営みに拒絶感を抱いているのではないだろうか、と思う。
都会で暮らす人も、田舎で暮らす人も同じ人間、日本人だ。
日本人には変わりはないけれども、身体に刻み込まれているDNAに変化が起こっているのではないかと思う。
そのうち顔かたちや心のもち方まで変わってくるのだはないかと思う。
  
ボクは都会と田舎のどちらが良いのか、優れているのかという比較をしているのではない。
ボクにとっては、同じ生き物とは思えないほど違いがでてきていると思うのだ。
もちろん、ボクのほうが「変人」で少数派であることは承知している。
  
ボクの言いたいのは、人間は誰しも「自分が正しい」と思っている。
ボクも少数派を自覚しながら自分の想いが間違っているとは思っていない。
他人に押し付け、意見を変えることを求めたりするつもりもない。
しかし、4次元の世界では別だ。
時間は無常だ。
何事も変化する。
ボクの身体とこころに感じていることが正しい、と密かに自信を持っている。
  
妻の誕生日に二人で食事をしようと思っていた。
誕生日を待つことなく帰ってきたので約束は反故になった。
今朝、「日の丸弁当は豊かさの証明」、という記事を見た。
74歳の料理研究家女性で「老眼鏡もなし、縄跳びを連続100回」という内容に惹かれた。
早速、著書をギフト包装でプレゼントすることにした。
きっと、「放っといて」と言われることと思うけれども、妻だけは例外。
例外と言いながら、あれこれと干渉している。
  
それも、吉野に足が向く原因かも知れない。