「ここにきて」。

311から10ヶ月。
まもなく一年が来る。
この間、テレビや新聞、マスコミは連日この問題を取り上げてきた。
原発の内部はどんな状況になっているのかは誰もわからない。
わかっていることは、有害放射能物質が全土に散らばっていること、被災地がゴミの山のままで放置されていること、被災者の窮状は解決していないこと。
「がんばろう・日本」というヒステリーは収まって、本音の意見が出始めた。
  
「あの時、一緒に死んだほうがよかった」。
そんな声が映像と共に流れてきた。
親や兄弟、子供を水に呑まれ、生死の境をさまよってきた人の心のなかに巣食ってきた感情だと思う。
「がんばろう・日本」と激励することで支え、抑えてきたのかも知れない。
ボランティアはそれぞれのところに帰る。
支援は支援。いつまでも続かない。
祭りのあとは寂寥感に襲われる。
  
「忘れないで欲しい」。
そんな声も聞いた。
311は過去のものではない。
現在進行中だ。
地震津波の犠牲者だけが被災者ではない。
この国と世界中に災難をもたらしている。
いま、生きている人間は死ぬまで311と向きあわなければならない。
地震は自然災害。予知できない。
原発は人間がおかした過ちだ。
災害は、後からあとからやってくる。
想定外のことが。
  
きのう、「大人は湿っぽい。子供は元気だ」、と書いた。
大人は過去を抱えている。
子供は未来を見ている。
ここに違いがあるのではないかと思った。
  
大人が鬱々とした状況に置かれるのはなぜか。
被害を受けたことは共通してたも、「うつ」的症状の原因はそれそれ違う。
「うつ」人に「頑張れ」は禁句だ。
自力を引き出すことなくして解決しないからだ。
被災者にも通じる、とボクは思う。
神戸の震災の時の教訓。
「支援に頼った人程回復が遅れた」、をボクは信じる。
  
子供の笑顔が素敵なのは、未来を見ているから。
都会では、子供の一人歩きは危険だ。
「学校が面白くない」と子供が言う。
夜遅く塾に通っている子供たちに明るい未来はあるのか、と思う。
被災地の子供の笑顔に救われる。
山積みのガラクタのなかでも子供は遊ぶ知恵をもっている。
絶望に屈しない子供のなかから、たくましい人間が育つ。
悲しみ満載のテレビの映像を見ていて感じる。
  
大人は、過去の経験をもっている。
過去の経験則から物事を組み立てる。
選択が狭められる。
みずからをみずからが閉じ込める。
鬱々とした牢獄に入る。
  
ボクは、「困ったときには、一番大事なものを捨てる」、を信条にしてきた。
実際は困難だ。
しかし、困難ななかから脱出口は見えてくるものだということを知った。
はじめに、こだわりを捨てるという決断が必要なのだ。
  
本題は「ここに来て」。
この10ヶ月、「がんばろう・日本」の大合唱が展開された。
マスコミや芸能人、スポーツマン、その他善意の人々の支援が強まり、広まった。
年末には一字漢字が「絆」になった。
歴史的な災害の通過儀礼だと思う。
まもなく一年。
  
ボクも、過去を引きずっている。
311を契機に、坐禅が上手くいかない。
被災地の大人と同じ心境だと思う。
子供の笑顔から学ぶ謙虚さを忘れているからだ。
  
それが、現在、只今の光明。