気のせい。

「気のせい」という言葉は、「実際は何も存在しないのに気持ちだけが動くことと」思い、使っていました。
吉野に来てこの認識が間違っているのではないか、と思っています。
新たな「気づき」を一つ。
  
きょうの日記で栗の実を紹介しました。
15個ほど収穫しました。
栗の収穫はこれからが本番です。
去年は、カラスとアリに全部食べられました。
今年も同じことになるだろうと思っているのですが、きのう収穫したことで欲が出てきました。
ただ、超えなければならない障害があります。
それは、食物の獲得をめぐる縄張り争いに参加することです。
きのう、思い知らされました。
  
イガのついた栗が落ちていたのはガッちゃんの墓石の近くです。
形の良い栗が数個、かたまって落ちていました。
早速、イガを剥くためにハサミや革手袋、バケツなどを用意して墓の前で皮を剥き始めました。
すると、たちまち小さい虫がムキ出しになっている腕にとまり食いついてきました。
痛いこと、痒いこと、尋常ではない攻撃です。
どんな虫かと観察すると、蚊でもブトでもなくこれまで意識したことのない細身の小さい小さい虫です。
動きも鈍く、止まっているところを抑えると簡単に殺すことができる代物です。
しかし、次から次に襲ってくるので栗をイガ付きのままバケツに入れて、玄関の前まで退散しました。
  
散歩をしていても虫に襲われることはありません。
行きずりに刺されることはあっても、襲撃とは違います。
きのうの場合は、明らかな攻撃です。
それも、枯れたイガを集めているときは何でもなかったのに、栗を剥き始めるとたちまち事態は変化したのです。
  
ボクが言いたいのは、ボクが栗の木の周りの秩序、「場」を乱すものとして登場したことに対する反撃ではないかと思うのです。
特に、その小さな虫が直接栗の実を食するとは思われませんが、食物連鎖の連関のなかで抜くことができない位置にあるのだと思います。
ボクは「栗の実」に目が行っていますが、虫にとってはその木の周りで生活する多くの生き物の複雑な関連のなかで培われてきた役割を果たしているのでしょう。
殺されても、殺されても、犠牲を顧みず執拗に襲ってくるのですから。
  
登山をしていて熊に襲われる確率よりも、山菜採りの人が襲われる確率のほうが格段に高いとボクは思っています。
その違いは、「場」に対する関わり方の違いだと思うのです。
「場」、空間には多くの生き物が居て、それなりのルールができています。
ルールを乱さないものには寛容であっても、そうでないものには報復が待っています。
  
ボクが栗の木に近づくと、ボクの気と「場」の気との交換が始まります。
彼らは攻撃をする前から、ボクを監視しているのです。
たまたま、美味しそうな餌が近づいたので攻撃してきたのではないのです。
アリやカラスやボクの知らない栗の恩恵に預っている者の領域を荒らし始めたことで攻撃に転じたのです。
  
虫に刺されたのは気のせいではなくその「場」の秩序を乱したこと、その報復だとボクは確信しました。
山に入るときには山のルールに従う、自然を変更するときにはそれなりの通過儀礼を行う、それが礼儀だと思います。
心置自然です。
  
古くからある仕来りの全部が正しいとは思いませんが、その根拠はわかるような気がします。
さて、我が家の栗、収穫をどうするか。
まだ、時間があるので考えてみようと思います。
  
そもそも「我が家の栗」という認識が間違っているのではないかと、と思うのですが。